神奈川県相模原市にある相模原氷川神社を訪れてきました。

住宅街の中にひっそりと佇む小さな神社ですが、ここには歴史ファン必見の「開墾記念碑」が建てられているんです。

そしてその題字を揮毫したのが、最後の将軍・徳川慶喜!とのことが、氷川神社に参拝するキッカケです。

氷川神社は静かで落ち着いた場所ですが、観光というよりは散歩の途中にふらりと立ち寄るのがオススメの神社。

相模原散策のついでに立ち寄れば、ちょっとした歴史探訪気分を味わえます。


相模原氷川神社

この土地は1843年(天保14年)に開発された開墾地で、入植者のよりどころとして同年6月17日、現在の八王子市の村社氷川神社より分霊され、当初は2坪程の小さな祠に祀られていた。1856年(安政3年)7月から8月にかけて、検地役人・江川太郎左衛門は手代・津田橘六、恒川左内を派遣し、検地鎮守社敷地許可を行い、当地は「清兵衛新田と称うべし」と言い渡された。この時両名は石灯籠を奉納、拝殿向かって右に恒川左内、左に津田橘六のものが据えられた。また開墾事業の発起人・清兵衛(隠居後改名したため嘉兵衛)は手水舎の石水盤を寄付し、現在も拝殿手前左側にあり使用されている。当時の入植者の苦労を忘れないために建てられた開墾記念碑の題字は、第15代将軍・徳川慶喜公、碑文は幕府に仕えた国学者・前田香雪(夏繁)によるもので、相模原市の有形文化財に登録されている。
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・手水舎
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・社殿
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  • 末社 福徳稲荷大神
弘化2年(1846)頃、今で云う相模原駅の南側辺りで狐に取り憑かれた人が多く出ました。困り果てた人々は高名な祈祷師を呼んで祈祷を頼んだところ、祈祷師は七日七夜お祈りをして狐を青い玉に変えて土甕の中に供物と共に封じ込め、境内地に穴を掘って埋め、更にその上に樅(モミ)の木を植え供養したそうです。
境内の一角に竹で囲われた大きな切り株が残っており、『狐火の塚』として大切に守られています。
昭和27年に八王子のある崇敬者の枕元にこの狐が立ち、神意を得たと感じたこの方のご厚意により祠が建てられたのが始まりです。その後、昭和54年と平成7年に立て替えが行われ現在に至ります。
毎年2月11日の建国記念日に合わせて初午祭が執り行われ、当日は氏子有志らによる奉納演芸・福引きなどが行われ、一日中賑わいを見せています。
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  • ​安産子育地蔵尊
​子供の成長を願って開拓当時の人々が、弘化3年(1847)に建立したと伝えられています。爾来、南橋本の郵便局の近くにあった大きな桜の木の根元に祀られていました。横浜と津久井を結ぶ横浜街道の側だったそうです。
入植者の一人『原利兵衛』が願主となって寄進した地蔵尊で、台座の石には『隠岐国阿穂無地蔵尊』(おきのくに あごなしじぞうそん)口中の病にて難儀の折に願掛けすれば、たちまち除け給う事疑いなし…とある。
あるとき、子供が出来ない事に悩んでいた小山村のお百姓さんが願を掛けた
ところ、無事子供を授かりすくすくと成長したので、いつの頃からか子育地蔵
と呼ばれるようになりました。当神社の境内には昭和20年ごろ移築されました。
古いお地蔵さんと並んで新しいお地蔵さんが祀られているのは、市内にすむ女性が祈願したところ結婚七年目にして子供が生まれたので、そのお礼として奉納されました。お子様の無病息災・安産を願う人々のお参りが絶えません。
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  • 清兵衛新田開墾記念碑
明治45(1912)年に清兵衛新田の有志によって建設されたもので、郷土の歴史を知る上で貴重な記念碑です。
表面題字は徳川幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の書で、裏面には前田夏繁(まえだなつしげ)の撰文(せんぶん)による入植者の偉業が記されています。碑の高さは4.5メートルです。
慶喜が書した経緯は、不明ですが、新田開発主の原家に碑文字を軸にしたものが保管されていたといわれます。
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アクセス(場所)

JR相模原駅から徒歩10分ほど。






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